ブラサカを見るまなざし。批判の起きにくい障がい者スポーツ界

IBSAブラインドサッカーアジア選手権が終わって、2ヶ月強。

ありがたいことに、「敗退について」の記事を少なくも出していただきました。

この記事、下書きからなかなか出せなかったのですが、この週末から新しい体制でブラインドサッカー日本代表の強化が始まることを受けて、踏ん切りのためにも。

 

徹マガ通巻261号 2020年に直面するブラインドサッカー

フットボール批評 ISSUE08

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などご参照を。

 

チームとしてなぜ敗退したのか?とか、何が足りなかったのか?とかは監督や選手たちの気持ちや解釈こそ尊重されるべきと思っているけれど、振り返る上で、唯一といっていいみんなの共通項があるように思います。

それは、敗退を受けて、(僕らがみずから言うべきことではないと思いつつ)

     批判されないことへの違和感

です。

 

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◎ なぜ批判されないのか?

障がい者に関係することがらは批判とは遠い距離にある

僕らがこのスポーツを通じて達成していきたいことの一つは、障がい者多様性が豊かな状態)との心の距離を埋めていくことにあります。それが埋まってない一つの証が、「障がい者に関係することがら」との世間の距離感です。

 

批判すると、プレッシャー団体や当事者から、その当事者性を強みにした批判をされることが怖い。

障がいという概念自体、「あたたかさ」「やさしさ」と結びつきやすくみなされている。

といったことが要因でしょう。

 

② あまりブラインドサッカーのことを知らない

上記で紹介した徹マガの主筆である宇都宮徹壱さんも述べていますが、サッカーのように世紀の時間軸をもつスポーツは長年取材している記者も大勢います。サポーターも暦年のつわ者たちが大勢いることでしょう。

一方で、ブラインドサッカーの取材歴は僕の記憶でも10年を超えて付き合いのある方は3,4名程度です。当然、その人たちも常にブラインドサッカーをウォッチしているわけではないです。

そういうなかで、①の観点を乗り越えて批判に踏み切ることは難しいのかな、と思います。

 

③ 世論の温度感

伝える側は当然、受け取る側を意識して発信しています。

メディアの人が「批判しない」とするならば、読者や視聴者がそう思っていないから、というのは当然の理由です。

つまり、メディアの人たちだけでなく、社会一般の考え方でも、ブラインドサッカーはまだまだ批判を想起するような対象ではない、という事実があるのだと思います。

僕らからすると、8年前〜4年前の4年間に比べれば、圧倒的な取り組みをこの4年間で展開してきた。今回の「パラ出場」というチャレンジは、線でつながってきたことです。初めて悔しい状態で出場できなかったわけでなく、4年前と同じ。ホーム日本で開催しながら、僅差をものにできずに敗退、その事実の上にあった4年だったわけです。

とはいえ、世の中の人たちは、大半の人は今回で初めてブラインドサッカーをしり、そのチャレンジを知り、それが自分たちのなかでの「スタート」だったわけです。「点」でブラインドサッカーを知る世間の温度感だったわけです。

当然、応援してきた歴史も浅く、敗退をみてその気持ちを批判に向けるにはいたらないわけです。

 

◎ 叱られない子どもみたいなもの?

「でも批判って好んでされるものではないでしょ?」ともいわれます。 

もちろん、突き刺すような冷徹な(?)批判に僕は耐えられないかもしれません。とはいえ、建設的な批判はほしいです。

それは、僕らが掲げていた「リオへの出場」にむけて、漠然と描いていた目標ではなく、必達すべく取り組んできた目標だったことにもあると思います。

あたりまえですが、頑張ったことに、よかれ悪かれ評価がほしい。

僕らは今回、「出場すること」を世間に約束して、いろいろな改革をともなった取り組みを行ってきた。

それがダメだった。

それは、自分たちでは「がんばったから仕方ない」で済まされるレベルではないと持ってる。

なのに、「お前らしっかりしろよ!」とか「あれだけ絶対行くっていっていたのに、いけなかったのかよ!」とか言われない。

それって、選手たちスタッフたちの心にも、モヤモヤとしてものを残しているんじゃないかなと思います。健全に選手たちも「コンチクショー!次またがんばってやるー!!」って思えていないんじゃないかな、とも。

だから、悔しさは内側に向いてしまって、自分たちを苦しめてしまっている。そんな気さえします。

 

◎ 反発心、反骨心はブラインドサッカーの価値観

プレーしている選手たちも、ブラインドサッカーには反骨心が宿っていると思っています。 

「視覚障がい者にサッカーなんて無理」

そう言われてきた僕らにとって、「そんなことはない」「やってやろう」そういう気持ちが強い。

だからこそ、建設的に、時に厳しい批判がブラインドサッカーを覆うことは臨むところでもあるのです。

それに前出のように、モチベーションを次に転化させるには、批判を乗り越えるという行為は必要なプロセスだと思うのです。

 

   *   *   *

そして、ブラインドサッカーだけでなく、障がい者サッカー全般に関して、批判やネガが出にくいあり方が変わっていくことも、一歩踏み込んだインクルージョンには必要なのだと思います。

2020年に向けて障がい者スポーツへの興味や関心、報道は増えていくことでしょう。これまでどおり、選手の障がいとの向き合い、どう乗り越えてきたのかといったストーリーは大事な観点だとおもってます。同時に、さまざまな取り上げられ方がなされていくのかも、本当に障がい者スポーツが社会でこれまで以上の役割を果たしていけるのかの指標になっていくようにも思います。